初めて取材でお会いしたのは、2010年9月7日の尖閣諸島中国漁船衝突事件以降、石原都知事(当時)の購入計画から国有化に至る動きの中。八重山港運㈱の社長室にお邪魔し、尖閣列島戦時遭難者遺族会長の立場として話をうかがった▼かつて八重山地区労働組合協議会の議長を務めるなど組合の闘士だったことを知って驚いていると、「だから労働者のこともよく理解しているつもり」と優しく語りかけてくれた▼1945年7月3日、石垣島から台湾に向かう疎開船2隻が米軍機の機銃掃射を受けた尖閣列島遭難事件当時、2歳だった。2カ月前に父親をマラリアで亡くし、母、兄(5歳)、妹(8カ月)と疎開船に乗り込んだが、機銃掃射を受け、兄を亡くした▼政治団体や保守系団体が慰霊之碑で慰霊祭を行ったときには「戦没者の御霊は、彼らの政治的なアピールのために利用された。憤りを感じる」と抗議▼陸上自衛隊配備計画が浮上して以降、慰霊祭のあいさつでは「国の専権事項といえども、市民の生命、財産を犠牲にしたり、市民の利益に反することは許されない」ときっぱり。中山義隆市長に直言し続けた▼いつも温厚な語り口だったが、胸に熱いものを持ち続けた信念の人だったように思う。慶田城用武さん。享年75歳。合掌。(比嘉盛友)
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