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【沖縄戦から73年~離島の戦争】③ 大嶺千代さん(85)=波照間島=

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波照間島で2度の空襲と強制疎開先の西表南風見で体験したマラリア生活を振り返る大嶺千代さん=21日午後、波照間島

 0歳の名もなき妹がマラリアに感染、当時12歳だった千代さんの背中で息絶えた。「母親にお乳を飲ませようと向かっていたが、着く頃には亡くなっていた。生まれたばかりで名前も決まっていなかった」。

 太平洋戦争の荒波が島を襲ったのは1945年1月21日。8機の米軍機による機銃掃射は住民と民家に向けられ、千代さんは波照間国民学校西側のフクギ並木に身を隠して難を逃れた。同年2月8日にはB24が飛来して機銃掃射と爆弾を投下。地上から約20㍍の高さで低空飛行する敵機を前に畑で体を丸めた。

 島に住む住民はサトウキビ中心の農業と盛んなカツオ漁による「半農半漁」で生計を立てた。当時は牛、馬、豚、ヤギ、鶏合わせて6770匹の家畜も飼育されていた。

 戦況が緊迫した同年3月下旬、島民へ疎開命令が下る。反対住民には青年学校教諭として入島していた離島残置工作員の山下虎雄が疎開を強要。人口約1600人による西表南風見への強制疎開が幕を開けた。

 疎開直前に山下が自宅へ訪れていた。千代さんは「優しい印象で悪い人には見えなかった」と語る。

 未開地での疎開は集落ごとの共同生活。千代さんを含む名石集落は山麓の川沿いに拠点があったことでマラリア患者がまん延。自身も発症したが、幸い軽症で済んだ。帰島後も含めて集落住民326人中、124人(38%)が亡くなった。

 同年7月末に疎開が解除され、約1カ月かけて全島民が帰島。父(41)と四男(3)、次女(0)の命はマラリアが奪った。

 突如襲った戦渦に「地獄だった」と両手を握り、「戦争が終わり、平和な世の中になって良かった。静かな波照間島で暮らせればそれでいい」と非戦を誓う。


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