石垣島でカツオ漁船の船長をしていた父・政三さん=大宜味村出身=が1931年ごろ、新たな漁場を求めて台湾の高雄に渡った。これに合わせ、当時3歳だった三男の宮城政三郎さんは、母・信子さん(旧姓・真謝)と兄妹3人とともに、母の故郷である与那国島に移住した。小学校6年生になると、政三さんの勧めもあって那覇市にある旧制沖縄県立第一中学校を受験、与那国から唯一現役で合格した。
■開 戦
「よし、やるぞ!」
一中に合格した1941年の12月8日、日本は米英に宣戦布告。ラジオから開戦の報が流れると、道路に飛び出して手にした木刀を何度も振り上げ、気合を入れた。
開戦のはじめのころはのんびりしていたが、戦況が激化するにつれ、戦時ムードが高まり、灯火管制のもと消灯して毛布などで窓を覆った。それでも、豚油をしみこませた脱脂綿の明かりで勉学に励んだ。
連合軍の反撃が始まると、日本軍は42年5月7日からの珊瑚海海戦で大打撃を受け、ポートモレスビー占領と珊瑚海制圧を断念。このころから過大な大本営発表が行われるように。日本軍は6月のミッドウェー海戦で壊滅的な敗北を喫し、戦局はいよいよ沖縄にさし迫る。
7月ころからは、学校の授業もなくなり、政三郎さんは、小禄飛行場拡張工事や読谷飛行場建設、与那原の塹壕(ざんごう)掘りなどの作業に従事させられる。学校は兵舎として使われるようになっていた。
■台湾へ疎開
「いよいよ沖縄は危ない。どうせ死ぬなら父母のいる台湾で死にたい」。そう思い詰め、学校の近くにあった巡査交番所に疎開の願いを出したが、「君のような元気なものが出て行って誰が沖縄を守るのか」と怒鳴られた。
7月下旬ころからは台湾、九州への疎開が始まり、一中にも疎開許可が下りた。与那国出身者の下宿先を回り、台湾へ疎開しようと呼び掛けた。
8月、2000㌧級の貨物船「謙譲丸」に学友らと乗船、台湾向け那覇港を出港した。敵に知られないよう、昼は慶良間諸島の島陰に隠れ、夜は魚雷攻撃の見張りを立てながらジグザグに進む。海軍の護衛艦5隻の船団で進む途中、機雷が爆破。大きな火柱と水柱が上がり、大音響が耳をつんざいた。
那覇を出て7日後、ようやく台湾の基隆港に到着。夜行列車に飛び乗り、家族のいる高雄に向かった。