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【慰霊の日企画】元学徒の証言㊥ 元一中学徒・宮城政三郎さん(89)

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自宅の焼け跡で唯一見つかったノート

 ■地獄絵図

 台湾では高雄州立高雄第一中学校(現高雄市立高雄高級中学)に転入。普段通りの授業が行われていたが、1945年1月、軍港のあった高雄は米海軍の大空襲に遭い、停泊中の艦船が壊滅的打撃を受ける。

 学校から帰ると、自宅は跡形もなく吹き飛び、道路では水牛があおむけに。家族は山に避難して戦禍を免れていた。

 焼け跡から唯一出てきた数学のノートの余白には「空に散れ」などの言葉や軍歌。「当時は、軍国主義の教育に洗脳されていた」と振り返る。

 自宅が焼けた町から、暗い夜道を郊外に逃れる人の列に混じった。「赤い炎と黒い人影の行列。地獄絵図を見ているようだった。あの時の情景は今でもはっきりと思い出す」。

 戦火を逃れ、「新威」という村で落ち着いた生活を取り戻したが、「自分だけ避難していいのか。学友は」と自責の念に駆られ、学校に戻った。

 軍歴証明書によると、1945年3月9日、臨時召集による特設警備第512大隊へ入隊し、第2小隊の第2分隊長となる。部下には同じ学友が14~15人。

 ■「分隊長戦死」

 5月ごろ、第2分隊が山から木材を運び出す作業をしているとき、「退避」という叫び声の直後、爆弾が近くに落下。隊員は一斉に物陰や地面の穴に逃げ込んだ。大音響とともに徹底的な波状攻撃が続く。

 「なんでそんなことをしたのかわからないが、穴の中で起き上がり、皇居のほうを向いて軍人勅諭五か条を唱えた」。

 空襲がやんでしばらくすると「宮城(政三郎)分隊長戦死!」と叫ぶ声。崩れた穴からはい出ていくと、木材の運び出しをしていた山は一面焼け野原。学友たちが吹き飛ばされていた。

 ともに昼飯を食べようとしていた学友たちが無残な姿。戦死の連絡を受けた学友の家族の泣き叫ぶ声が兵舎に響き渡る。荷車に遺体を何体も乗せて火葬場に運んだ。「戦時中とはいえ、荷車とはなんと悲しいことか」

 ■晴れ渡った空

 8月、米軍は広島、長崎に原爆を投下。日本は15日、連合国に対して無条件降伏。分隊は同31日、武装解除された。

 「とても晴れ渡った青空を見上げると敵機が悠々と旋回している。のんびりした時間が流れ、違う世界に来たようだった」と鮮明に記憶する。

 その後、高雄一中に戻り、修了証書を受けた。

 日本統治から解放された台湾の町は戦勝ムード。掲げられたアーチには「祝・祖国復帰五十年」の文字。近くの川には、日章旗や標準語励行の立て札が捨てられてあった。

 家族とともに与那国島へ帰ろうと、基隆行きの汽車に乗った。蘇澳の港町に到着し、与那国行きの船を待った。滞在の間、台湾の人たちが日本人の男を追いかけて殴る蹴るの暴行を加えている現場を目撃した。

 「日本は、台湾を植民地として現地の人たちを差別し、いじめた」。親日的と言われる台湾だが、終戦直後は、その怒りが憲兵や巡査に向かったのだった。


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