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柳田國男歌碑の案内板設置を

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■何のための歌碑建立か

 碑は何のために建立するのか。当然ながら後世に伝えるためであろう。八重山にも多くの碑がある。歌碑、句碑、個人顕彰碑から戦時中、八重山に駐屯した部隊の慰霊碑など相当数の碑がある。碑は、除幕式の際には盛大に祝賀会を催し清掃など維持管理をしているが、数年もたつと草が伸び放題で、どこに碑があるのか分からないものもある。

 建立後、市町に移管したものは公園敷地内にあり、清掃も行き届いているが、移管されない碑は荒れ放題で、何のために建立したのか首をかしげたくなるものもある。これでは刻まれた碑が泣くというものだ。「仏作って魂入れず」であろう。

■柳田民俗学の原点は八重山

 白保真謝浜の防潮林の中に建立された日本民俗学の泰斗、柳田國男の歌碑は2001年12月16日に建立された。碑には柳田が1921年八重山を訪れた際に詠んだ「あらはまの まさごに まじる たから貝むなしき名さへ なほうもれつつ」の歌が刻まれ、裏面の碑文には、柳田が来沖し沖縄研究の扉を内外に開き、日本民俗学の形成に重要な意義をもった「海南小記」の記録がある。

 石垣島には7日間の滞在であったが、晩年に至るまで八重山を紹介し続けた。大学生の時、愛知県伊良湖岬に流れ着いたヤシの実を見た体験と沖縄で見た宝貝は、その後大きなモチーフとなって晩年の壮大な著作『海上の道』となった。ヤシの実と宝貝は、日本民族の由来と海を渡って文化を伝えた名もない人々の生活に思いをはせた柳田の民俗学を知るための重要なキーワードである—と記している。

 現在、柳田の歌碑は、管理を石垣市に移管しているが、周辺は雑草で荒れ放題、歌碑も13年が経過し、文字のペンキが剥げ、判読に苦労する状態である。

 建立当時、国道から浜へ通じる侵入道路が完成し、碑へも近かったが道路の土地所有者と石垣市の換地問題がこじれ、道路は封鎖された。そのため碑へは集落を通って真謝浜から行くことになった。しかし案内板がなく、そのうえ防潮林で外部からは見えにくく、入り口は流木や石でふさがれたり、樹木や雑草で荒れ放題のため碑を探し当てるのが難しいのが現状だ。

 本土から訪れた歌人や民俗学研究者たちが、探せなくて時間の都合で歌碑を見ることができなかったという声も寄せられている。除幕式で当時の大鍇長照市長は「この地が本市の新たな観光スポットになることを期待する」と祝辞の中で述べた。現状は観光スポットどころではない。嘆きのスポットでしかないであろう。

■趣意の啓発を

 碑の管理者である石垣市は観光文化都市の名に恥じないためにも、清掃はもちろん、案内板や説明板を設置し、維持管理に誠心を傾けるべきではないか。また、碑を市に移管した歌碑建立期成会も解散したとはいえ、関係者は碑建立の趣意を生かすためにも何らかのアクションを起こすべきではないか。

 民俗学者で碑建立に大きく貢献した故・谷川健一氏は「柳田の民俗学の原点は沖縄のなかでも八重山にある」と述べた。日本民俗学にとって八重山は重要な地域。八重山の研究者たちはそのことも想起しながら、柳田の歌碑に関わるべきではないか。


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