1978年3月3日に国指定の史跡となり、石垣市教育委員会が92年から保存修理事業を続けている大浜地区北方のフルスト原遺跡は、これまでに石塁遺構(石積み)15基のうち7基が復元されるなど、外観をあらわにしている。市教委文化財課によると、石塁15基のうち復元していない8基については現状のまま残す計画。今後は園路整備、リーフレット作成、説明板設置のほか史跡外に駐車場、広場の整備を行い、2017年度にも利用しやすい環境を整える予定だ。
保存修理事業は国の8割補助を受けて実施されてきた。14年度予算も含め2億7280万円が投じられている。14年度は発掘調査、石塁外周の芝張工事、遺物の整理などを行う予定。同事業とは別に市教委は13年度から一括交付金を活用し、史跡西側の崖下に広場や駐車場を設ける事業をスタートさせており、15年度の完了を計画する。
石塁遺構は戦時中、隣接の海軍飛行場(現旧石垣空港跡地)の爆弾痕を埋めるために持ち出されたり、畑に利用されたりするなどして形を変えていたが、発掘調査で石積みの基礎部分が確認され、古老の記憶にある6(1.82㍍)~7尺(2.12㍍)の高さに復元された。
遺跡は現在でも見学できるが、市道タナドー線からの進入路が整備されていないほか、復元された石塁遺構の周辺に草木が繁茂するなど足場が悪く、遺跡の利活用が進んでいない。
このため、市議会6月定例会では議員2人が一般質問で取り上げ、「国指定の史跡なのに看板などが心もとない」「もっと有効に生かすべきだ」と指摘。学習や観光の資源として活用するよう求めていた。これに対し成底啓昌教育部長は、17年ごろから史跡の一部を公園として部分開放できると答弁した。事業の完了時期は予算の関係上、まだ確定していないという。
【フルスト原遺跡】
標高25㍍前後の石灰岩丘陵上に位置し、眼下に宮良湾を望む。石積み遺構は城郭としての機能よりも屋敷囲いとしての要素が強いと言われている。これまでの発掘調査で生活用品や装飾品、イノシシの骨、貝殻などが出土している。大浜地区では、オヤケアカハチの居城と伝えられているが、アカハチが活躍した15世紀後半より100年ほど前から遺跡が存在していたことが分かっている。