■石垣島は「岩石博物館」
石垣島はその名の通り岩石の多い島として知られ、岩石の博物館と称する学者もいる。それだけに、地質も複雑で鉄分を含んだ赤土から灰色、白土、それに磁器の原料とされる土も採れる。古文書にも八重山の特産物として白土が上げられている。古くから陶芸家にとって八重山の陶土は魅力あるものであった。
八重山の焼き物といえば古くは土をこね、日ざらしにして、カヤやススキで焼く野焼きで、もろくて壊れやすいパナリ焼きのような土器が主流であった。
近世に入ると、本土や本島から陶器が流通し始めた。そのころ、琉球王府の財政は逼迫(ひっぱく)し、倹約政策をとり、立て直しに必死であった。甕(かめ)や壺(つぼ)を本土や本島から購入するのではなく、地元で焼き物を生産することに本腰を入れた。
■王府が仲村渠筑登之致元を派遣
八重山蔵元は本島の壺屋に焼き物けい古のために役人を派遣した。また、王府からは指導のために、1724年に壺細工・仲村渠筑登之致元が派遣され指導にあたった。致元は陶土を求めて役人を従え野山を探索し、やがて、窯を築き役人や百姓等に壺焼、上焼の陶法を伝授した。
仲村渠の八重山滞在は3年であったが、その間、石垣島で作陶した作品を尚敬王に献上し褒賞を授かっている。29年、本島に戻った仲村渠は白焼き物を作り、国中へ広めた。おそらく八重山産の白土を用いたものであろう。仲村渠はその後薩摩へ行き、作陶技術を学び、帰国して窯を改良し磁器も焼いた。磁器の原料も八重山産の陶土を使用したかも知れない。
さて、彼の窯は山田平等という所に造ったと記録されているが、山田平等は研究者らによって石垣市街地を見下ろす、石垣市苗圃南側周辺に当たるといわれている。同窯跡は、阿香花窯と命名されているが、地名から言うと阿香花は石垣青少年の家付近の地名であり窯跡とはかけ離れており、ふさわしくない。いずれ改名すべきではないか。
八重山の古窯である名蔵窯、黒石川窯が発掘され、黒石川窯は2012年8月3日「八重山における築窯の様子や変遷を知る上で貴重な史跡」として石垣市の文化財に指定された。
■荒れ放題で破壊の危険性高く
しかし、黒石川窯跡より先行する阿香花窯跡はそれより貴重である。八重山の陶芸史はもとより、琉球陶器の名工、中興の祖といわれる仲村渠致元研究、さらに近年注目を浴びている「八重山焼」と銘記された焼き物などの解明が期待される。琉球陶芸史を書き改めるかもしれないほど、重要な古窯である。全国の研究者がその発掘を注目しているのである。
ところが、窯跡は草木で荒れ放題で、周知する標識もなく破壊される危険性も高い。一昨年、文化財に指定された黒石川窯跡も牧草に覆われ、説明版や標識さえもない。これでは何のための文化財指定か分からない。石垣市教育委員会、市文化財審議会はそのような現状をもっと重く考えるべきだ。阿香花窯跡の重要性を認識し早急な保護対策や発掘計画を検討すべきである。