■名蔵湾のほとりで
快晴の正月2日に名蔵湾岸を歩いた。ケーラ崎を東に回り込むとマングローブの陰に若い夫婦と2、3人の子どもの姿があった。
邪魔にならぬよう静かに通り過ぎようとしたらいきなり立ち上がった父親と目が合ったので軽く会釈した。
父親は少し戸惑ったように目を見開いていたが、二呼吸後に発した「こんにちは」を背中で聞いてしまった。慌てて振り返りあいさつを返したのだが、自分のことは棚に上げあいさつはなぜ遅れたのだろうと思った。
子どもの手前、範を示そうと意を決するのに少し時間を要したのだろうか。父親らしくありたいと念ずる思いのようなものを一人勝手に思い、そのことに好感をもった。子どもたちの直前の表情の硬さもなかった。
ピクニックを楽しむ家族から正月早々幸せのおすそ分けをいただいたようでうれしかった。同時に若い父親の、父親としての志や向上心のようなものを思い頼もしく思った。
■バンナのつり橋の上で
バンナでウオーキング中、つり橋の上で前から家族連れがやって来た。楽しそうに会話を交わしているので例によって静かに脇から通り過ぎようとしたら小学校中学年の年頃の少女に「こんにちは」と元気いっぱいの声をかけられ、これまた慌ててあいさつを返した。小さな男の子もつられてあいさつした。若い父親には思いがけない展開だったのか苦笑いであった。
娘にしてやられたと思ったのだろうか。それとも少し複雑な思いもあったのか。昨今は不審者等が増え、知らない人にあいさつしてはいけないとも教えられるのである。少女は両親と一緒という安心感からおもいっきりのあいさつができたのだろうか。豊かな自然の懐等で人の目があれば見知らぬ人へのあいさつも推奨していいのではなかろうか。
女の子のあいさつには力があった。大人のこちらが応援される思いであった。同時に変に気を使いこちらからあいさつしなかったことを悔いた。先の名蔵湾の場合もそうだが、子ども連れだからこそこちらからあいさつすべきでなかったか。
■あいさつを通して
管理職になったらあいさつを返さなくなったと聞いた。重々しさを演出する大人の分別のつもりだろうか。この類の者に限って必要以上に部下を叱責する言葉を口にする。これでは笑顔絶えない職場、機能する協働体制はおぼつかないだろう。とんでもないお門違いである。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というシンプルな至言を知らないのだろうか。
あいさつは老若男女や立場の違いを超えた同じ土俵に成立するのである。
あいさつは相手の存在を認めている証しでもある。コミュニケーションもここから始まるだろう。好ましい人間関係の構築もしかりである。あいさつは「潤滑油の働き」をするとか「魔法の言葉」と言われたりするがその通りだろう。前回「キレやすい」大人について書いたが、それを予防する上でも有効に働くだろう
ところで石垣市は「日本一あいさつあふれるまち」づくりも目指してはどうだろう。予算の心配はないし強力な観光資源にもなる。旅先であいさつされるのは気持ちいいものだ。