■寄り添いが信頼関係に
高校合格祝いに招かれた。終始笑顔の祖父母。台所で立ち働きながら会話に加わる母親。無表情を装っても口元が緩んでいた父親。司会役の高校生の姉に喜びのことばを述べるよう振られたその子は中学校は楽しかった、高校でも頑張りたい、観光の仕事をしたいので英語に力を入れる、まずは4級に挑戦すると上気した顔で話した。偉いなあと感心すると、かたわらの祖母が唐突に担任に恵まれた、親身に指導してくださったんですと口にした。
先だって進路指導の不適切、不誠実な対応で一人の中学生を死に追いやった学校があった。高校への推薦を得られず落胆したであろう生徒への進路指導を廊下の立ち話で済ませている。なぜ相談室のような所で親身に対応しなかったのか。推薦されなかったのは誤った万引記録によるというからひどい。さらに驚くべきは誤記を確認していたのに削除されないままであったという。
そもそも推薦基準を四角四面に運用すると無理が生じるだろう。難しい年ごろの中学生の問題行動を予防、けん制するねらいもあったようだが本筋を外れている。教師は寄り添うことで児童生徒への理解を深め、子どもたちの信頼を得る。教師を信頼する子どもたちは望ましい変容に向かうだろうし、期待に応えようと学習意欲も増し、学力は高まるだろう。
先の「担任に恵まれた」は幸運であったというニュアンスだろうか。そうであれば寂しい。どの子も担任に恵まれてしかるべきなのだ。
■「子どもの貧困」は政治の貧困
毎日のように「子どもの貧困」が報じられる。こちらは政治が経済的弱者に寄り添わない結果である。大企業や金持ちを優先する政治ゆえの格差拡大だ。憲法が保障する教育を受ける権利や教育の機会均等はどうなるのだろうか。それとも安保法のようにこれらも解釈変更可能だろうか。気のせいかこの頃自己責任を口にする人が増えたように感じる。中には的外れなものも少なくなく、それらは例外なくひどく冷淡な響きを帯びる。
以前給食費を納めない児童に給食を与えなかった教師がいた。ひどいお門違いであった。本年度は「子どもの貧困」対策事業が国、県で本格的にスタートし、それを受けて石垣市でも予算を大幅に増やしたようだ。無料塾の開設や返還免除型奨学金の設置など早期実現を望みたい。
■寄り添うは甘やかしではない
寄り添うとは甘やかすことではない。自立を意図した思慮であり態度である。厳しく対処しなければならないことだってある。例えば携帯・スマートフォンを使用する子どもへの対応だ。ゲーム依存や掲示板への悪口の書き込みなど、弊害が幾つも指摘されているそれらを野放図に使用させるわけにはいかない。フィルタリングの設定や夜間は使用しないなどルール作りがずっと求められてきたが、どれくらいの家庭で取り組まれているだろうか。先月、石垣市教育委員会で「我が家の携帯・スマホ等ルール10カ条」の発表があった。足並みそろえた実践を期待したい。
新学年度が始まった。日々漫然と子どもたちに対するのではなく意識的に寄り添う大人でありたい。そうすれば彼らもいずれそうしてくれるに違いない。目指すは負ならぬ正の連鎖である。