第100回全国高校野球選手権大会は新設されたタイブレーク制で逆転サヨナラ満塁ホームランが飛び出すなど、連日奇跡的な熱戦が繰り広げられ21日閉幕した。その甲子園が盛り上がりを見せるなか、明らかになったのが「八重山から甲子園に行かす会」(嘉手苅恒瑛会長)の解散である。
■独特な組織名
発足は1988年。当初は「八重高を甲子園に行かす会」だった。この組織名が八重山的でありユーモアがあると話題になった。「行かす」は日本語本来の語法からすると「行かせる」とすべきだ。そこをあえて「行かす」とした点が面白い。まだお気付きでない向きもあるかもしれないが、この言い方は実は八重山独特なのである。「うちの子をそっちに行かすからヨ」などと日常的に使っている。
同様に「沖縄にが行っていたサ」と言うときの「が」の使い方がある。八重山方言の「ナマドゥ来ラリ」を直訳して「今が来られる」の「が」をそのまま残した形である。これはしかし、八重山独特というより古い日本語が南の果ての島に立派に残っているというべきだ。八重山高校校歌で「今ぞ羽ばたく若鷲の」と歌うときの「今ぞ」の「ぞ」がそれ。会の名称を「行かせる」でなく「行かす」と八重山的にした先輩方の心意気に得も言われぬ郷土愛を感じる。
■商工が夢実現
「行かす会」は2003年に発展解消、「八重山から甲子園に行かす会」に改称すると3年後の2006年には大嶺祐太投手(現千葉ロッテマリーンズ)を擁する八重山商工が春・夏連続で甲子園に出場した。郷土の高校球児を応援するため甲子園に行けるのはこの先、一生ないかも知れないとの思いで大勢の八重山出身者がツアーを組んで出掛けたものである。ここに一応、会の目的は達成できたのである。春は2回戦で横浜に6対7の惜敗。夏は残念ながら智弁和歌山に3回戦で3対8の完敗だったが、何とも言えない達成感が応援団を包んだ。
会の名称に八重山の言語文化を残した先輩たち。連想して考えるのが、かつて三高校陸上競技大会などで盛んに歌われた一連の応援歌が若い世代に受け継がれていないことだ。八重山高校だと「第一行進曲」さえ歌えない。ましてや「凱歌Ⅰ」「凱歌Ⅱ」「敗歌」などといった応援歌は消えてしまっている。
これら多くの応援歌はその大部分が早稲田、慶応、明治といった東京六大学を中心とした大学の応援歌を替え歌にしたものだったが、そのこと自体歴史を感じさせるものだし、本土の地方ではなく直接東京へ憧れを持った若者たちの時代を示している。こうした一連の応援歌も一つの文化であり、それが忘れ去られるのは寂しい。
■八重山に希望
今回の「八重山から甲子園に行かす会」の解散は役員らの高齢化が主な理由という。30年間本当にお疲れさまでしたと言いたい。今後、会の活動を継承する若い世代が出てくることを望みたいところだが、一方で有能な人材が本島をはじめ本土など島外へ流出している問題も課題として考えなければならないのではないか。今度の夏の甲子園で非凡な才能を見せた興南の1年生三塁手西里颯選手は石垣第二中の出身。
いずれにしろ、「行かす会」は八重山に希望をもたらす大きな仕事を残したのではないか。