【西表】太平洋戦争末期の1945年に日本軍の命令で波照間島から西表島に強制疎開させられ、マラリアなどで亡くなった犠牲者の冥福を祈る、忘勿石之碑慰霊祭(同碑保存会主催)が「終戦の日」の15日、南風見田海岸にある忘勿石之碑で行われた。疎開当時、同碑の前で子どもたちに授業をした波照間国民学校校長の故・識名信升氏の孫や犠牲者の遺族ら20人余りが参列。戦争マラリアの悲惨な歴史を風化させてはならないと、犠牲者を悼み恒久平和を願った。
小雨の降る中、正午の時報とともに参列者が黙とうをささげ、次々と献花した。
保存会の金武正会長代行(70)=登野城=は強制疎開や忘勿石について説明、「強制疎開がなければ島民は元気に暮らすことができた。この悲劇を忘れないためにも、関係者や町役場に相談して保存会を存続させたい」と語った。
識名氏の孫・信克さん(53)=石垣=は、同碑のすぐ近くの岩に彫られた「忘勿石 ハテルマ シキナ」という文字について「祖母の話だと当時、授業を終えた信升が十字剣で砂岩に文字を彫っていたという。後になって忘勿石の文字だと分かった」といきさつを紹介。
「子どもたちの未来を思うと平和とは何かを考え、平和を残さなければならない」と述べ、ともに参列した息子の信輝君(7)の肩を抱き寄せた。
8年ぶりに波照間から参加した元波照間小学校校長の仲底善章さん(65)は「識名先生の思いを想像しながら手を合わせた。波照間島には遺族や関係者が住んでいるが、今回、参列者がいないのは残念。来年以降は島民も連れてきたい」と後世に継承する決意を新たにした。
南風見田には45年4月から疎開が始まり、波照間の島民1590人が移ったが、わずか4カ月間で児童を含む85人がマラリアなどの犠牲に。識名氏は南風見田海岸で青空教室を開き、疎開の解除を訴え続けた。同年8月に帰島が始まったが、帰島後もマラリアで約450人が犠牲になったという。
同碑は「忘勿石 ハテルマ シキナ」と砂岩に記された文字を平和を願う遺跡として保存しようと、1992年8月に西表在波照間郷友会が主体となって建立したもの。