■擬装と防空壕(ごう)作り
1944(昭和19)年末ごろから米軍機がしきりに飛来するようになった黒島。東筋で父・真清さんと母・澄さんの次女として生まれた島仲和子さん(85)=旧姓・当山=は45(同20)年、小学6年生だった当時の記憶をひもとき始めた。
和子さんを含む小学4年以上の児童は、黒島国民学校から東筋の東端まで、毎日約3㌔を歩いてアダンの葉をノコギリで切って縄で運び、赤瓦で目立つ同校の屋根を“擬装”。朝晩は自身の身長分の深さを掘る単独防空壕(ごう)造りに明け暮れた。
6月のある日、学校周辺の職員用防空壕に用務員の女性が入った瞬間に爆弾が落ち、一時生き埋めに。男性教師が引きずり出して助かったが、和子さんは「ワーワーと泣いてかわいそうだったよ。擬装していたが、爆弾が10発ほど学校の周りに落ちていた。効果なかったのかな」と振り返る。
■祖母と西表島へ
空襲が激しかった6月、東筋で避難所を造っていた伯父におにぎりを届けると、宮里集落から黒い煙が上がっているのが見えた。後に同級生の男性の家族が犠牲になったことを聞かされた。「長女の姉さんだけは芋掘りに行って助かったようだが、ほぼ一家全滅だった」と思い出す。
同月に東筋では大通りで不発弾が見つかり、和子さんは当時92歳だった祖母のウメガスさんとともに深夜、約1時間かけてサバニで西表島東部へ避難。黒島住民は西表島東部のほか由布、カサ崎、アイダ崎、南風見へと疎開させられた。
「低い山でマラリアはなかった」と話す和子さんだが、ほかの疎開地では罹患(りかん)した人もおり、マラリア戦没者は54人にも上る。
■母と姉の涙
7月上旬ごろに終戦の知らせを西表島で聞き、和子さんは祖母と再びサバニで黒島へ。月夜の晩で風はなく、波は穏やかだった。深夜2時ごろ家に着くと、澄さんと姉の悦子さんが「戦争やまきなぬんとぅ(戦争に負けたってね)」と悔しそうに涙を流していた光景が今でも忘れられない。
52(同27)年、和子さんは19歳で6歳年上の三郎さん(享年86)と結婚。泡盛を造って売るなどして6人の子どもを育て上げ、孫14人、ひ孫1人に恵まれている。ひ孫の写真を見て一瞬笑みがこぼれたが、「子や孫にはこういう思いはしてほしくないね」と表情を戻し、平和への思いを言葉に込めた。