■「トンツー」
県立八重山中学校に通っていた1945年3月末、鉄血勤皇隊通信隊に入隊した。当時16歳。
兵舎は登野城国民学校にあったが、八重山旅団司令部東の墓の近くでモールス符号の練習を開始した。ただ、空襲の度に墓に逃げ込んでいたため、成績は上がらなかったという。
八重山諸島は前年の44年10月12、13日、初めて空襲を受け、45年になると、飛行場周辺を中心とした空襲が頻繁になり、攻撃は激しくなった。
戦局の悪化で5月末には於茂登と開南北西の於茂登岳のふもとに移動。本格的に機械の操作を受け、送受信の訓練に励んだ。
旅団司令部は、石垣島の南側からの敵上陸を想定し、山間部への移動を旅団は決定。一般住民には6月10日までに軍の指定地に避難せよとの命令を出した。
司令部は、山間部の地形と堅固な陣地で、長期持久戦に持ち込んで最後の一兵卒まで抵抗を持続し、敵の飛行場利用を許さないようにと考えていた。於茂登岳への移動に伴い、山田さんら学徒は各部隊の資材運搬にかり出された。
■何人残った?
暗闇、小雨の中、開南から資材を担ぎ、兵隊に引率され、ぬかるむ田んぼのあぜ道を通り、川を渡り、畑を横切り、林を抜ける。重い鉄線を山奥の司令部まで運ぶ。資材運搬を終えると、通信班はさらに山奥へ。その間にマラリアに罹患(りかん)する学徒も。食料不足、過労で弱り切った体にマラリアは罹患するという。
沖縄県史10「沖縄戦記録2」に「軽い者はキニネを飲み二、三日休んで作業に出役、重症の者は家庭へ、残った者は家からの差し入れ、父母の手作りのにぎりめしが命の綱。山奥へ引っ越した時は何人残ったろうか」と記している。
■一銭五厘
ある日のこと、外泊の許可が下り、名蔵ビイナダの田小屋に向かった。母親はマラリアによる高熱のため、流産したという。青ざめて血の気がない。かすかな声で「善照、元気だったか」と声をかける母のやせ衰えた姿に「生きていてくれるだろうか」と不安がよぎる。
避難していた母、祖父、妹、弟の全員がマラリアに罹患したが、幸い、病院に勤務していた姉が確保したというキニーネで一命を取り留めた。
於茂登岳に戻ってからは通信隊の他班との連絡も途絶えたが、送受信の実地訓練の連続。戦況についてはもちろん知らされなかったが、8月9日、勤皇隊は除隊となった。
あれから73年。「僕が強く言いたいのは…」と一呼吸置いて語った。
「偉い人は第一戦には行かない。一銭五里の命の兵隊が銃を持って殺しに行った。多くの人を殺せば国は戦争に勝つ。兵隊同士が殺し合い、えらい人は殺しも殺されもしない。いくさは絶対にあってはならない」