「家族は、一生戻ってこないと思ったはず。別れるとき、大きい声でわーわー泣いたよ」—。八重山から沖縄愛楽園(名護市)に入らざるを得なかったハンセン病回復者(元患者)の証言である▼同園内の「沖縄愛楽園交流会館」にある常設展示では、旧大浜村真栄里にあった部落隔離所の写真も見ることができる▼撮影は1937年。その小屋のあまりの粗末さに、「11名の患者が収容されていた」という短い説明文が重たい▼3万人規模のハンセン病患者収容施設を西表島に整備する計画も取り上げられている。実現はしなかったが、仲間・南風見、古見、高那上原という三つの予定地が示され、八重山とハンセン病のかかわりについてあらためて考えさせられる▼回復者の肉声は、沖縄愛楽園自治会発行の証言集から抜粋した証言をパネルにして紹介。八重山関係者は本稿冒頭で紹介した証言のほかに、交際中の女性が妊娠していると分かっていたものの、別れざるを得なかったという男性の証言があった。その女性や子どもと会えるチャンスはあったが、「会っても何もしてあげられないから」と断ったという▼屋我地島にある愛楽園へは、沖縄自動車道を走り切ったあと、さらに約30分。心に刻まれるものは深く、それだけの時間をかけて行く価値がある。(松田良孝)
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