登野城在の知人大先輩から私信をいただいた。西郷(せご)どんにまつわる資料である。それによれば大正15年9月の先島新聞に西郷の50年忌法要を桃林寺で営むとの記事が▼「お知らせ文」は西郷を「蓋世の人豪」と表現し、「崇拝すべきは志士の本分」とある。はるか南海の島で、半世紀の時を経て西郷を慕う集いがあったのだ▼突然、妻の記憶が蘇った。昭和30年代から40年代、女の子たちの遊びの定番ゴム跳び。その数え歌に西郷がいたという。口ずさむのを聞けば「一かけ二かけて三かけて」から始まり「私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です。切腹なさった父さまのお墓参りに参ります」などと歌ったと▼当時の女子は自分のことを「うち」と呼んだ。もしか関西由来の遊び歌かもとネット検索してみた。ある、ある。何と全国各地でほぼ同趣旨の歌詞で歌われている。末尾が多少違うだけでお手玉歌、手毬唄として大正期以降、広く普及していた。その数え歌が昭和の石垣島にどのように伝えられたのだろう▼「四かけて」は明治政府に仕掛けられてやむなく武装蜂起した、との暗喩であるとの説もあった▼時代と闘い、未来を創造し、やがて消えた悲劇の英雄。なぜかくも愛惜されるのだろう。西南戦争から140年。西郷の残り香は全国に、石垣にもあった。(慶田盛伸)
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