1945(昭和20)年7月3日に尖閣諸島近海で疎開船2隻が米軍機の銃撃を受けるなどして多数の犠牲者を出した尖閣列島戦時遭難事件で、遭難者遺族会(慶田城用武会長)は3日、新川舟蔵の慰霊碑前で慰霊祭を行い、参列者が犠牲者の冥福を祈った。戦後70年目の慰霊祭で生還者は「日々の幸せに感謝している」とあらためて平和の尊さをかみしめ、戦後生まれの遺族は「毎年参加したい」と後世に伝える決意を新たにした。
慰霊祭では住職の読経の中、参列者一人一人が慰霊碑前で焼香し、手を合わせた。
当時、家族ら7人で乗船し、祖母と叔母を亡くした宮良和子さん(82)=大川=は「犠牲になった人たちの上に今がある。私には孫もひ孫もできた。日々の幸せな生活に感謝、感激している」と話した。
生還者の父・博さんを3年前に亡くした下地森夫さん(45)=宮古島市=は昨年から父親に代わって参列しており、「おやじはすさまじい体験を話すことはなく、おやじがどんな感情を持っていたか、おやじに会う気持ちで(慰霊祭に)来ている。息子にも続けさせたい」と語った。
慶田城会長は「生還者は魚釣島での出来事を誰一人も話さなかったが、戦後50年を経た1995年に遺族会を結成し、2002年に慰霊碑を建立した。遺族会は慰霊碑が南の国境の平和のとりでになるよう毎年慰霊祭を執り行う」とあいさつ。
八重山市町会会長の中山義隆石垣市長は「戦時遭難事件を風化させず、後世に正しく伝えることが御霊に報いることになる。平和行政に全力で取り組む」と述べた。