石垣字会(池城孝会長)は21日、戦後70年の節目にあらためて戦争と平和について考えようと、戦時中に字石垣地区住民の強制避難先となった外山田(前勢岳)の「カーラフターゼー」で避難地巡りを行った。地域住民ら約50人が避難先まで歩いた後、マラリア犠牲者を追悼し、体験者から話を聞いた。戦後生まれの世代は「現場で話を聞くと現実感があった」と戦争体験を肌で感じた様子だった。
参加者はバンナ公園西口近くの県道208号でバスを降りて前勢岳側に入り、川沿いを登った。急な坂や滑りやすい岩もあり、「こんなところに避難させられたのか」との声も。「(当時のことを)思い出したくない」という体験者がこの地を忘れることなく、後世に語り継ごうと戦後初めて訪れたケースもあった。
1945(昭和20)年6月の避難の状況について潮平正道さん(82)が、食糧営団の責任者だった父・寛保さんの日記から「6月1日、旅団司令部に行く。6月10日まで避難せよとの命令」と紹介した。
避難地巡りに参加した体験者は当時、小学生や中学生。避難先では熱冷ましの水や飲み水を取りに何度も川を下り、上った。当時12歳の玉代勢孫芳(そんぼう)さん(73)は「なぜ軍は住民を苦しませたのか。子どもながらに戦争を恨んだ」と話した。
玉代勢さんは、家族4人と避難先から自宅に戻った後、マラリアに罹患(りかん)。「熱が出ると、体が空中に浮き、バタンと落ちる感じだった」と説明した。兄弟3人をマラリアで失った。
ほかの体験者は、マラリアの薬キニーネがないため、ヨモギの汁を飲み、搾りかすを体にこすって温めたことや、大きな松の下で臨時の学校に通ったこと、怖くて眠れなかったことなども報告した。
参加者のうち、黒島孫司さん(30)は「こんな機会がないと来られないだろう。体験者から現場で話を聞くと現実に起こったことだと感じることができた」、國吉長朗青年会長(29)は「避難先での生活は僕が小中学生だったら絶対できない。僕たちや下の世代が戦争を経験することがないよう、きょうのことを資料として残し、語り継いでいかなければならないと思った」と話した。
婦人会の会員の一人は「母方の実家の避難先が初めて分かった。ここで先祖が避難していたのだな」と70年前に思いをはせた。