【那覇】戦後、石垣島で流行した「愛の子守歌」を作詞作曲した石垣市大川出身の宮良政貴(せいき)氏の未発表の詩などを、ジャーナリストの三木健氏(75)=浦添市、登野城出身=が没後50年の昨年発見し、遺族によって5月に作品群が詩集「八重山夜曲」として出版されることになった。三木さんは「八重山文芸復興期の詩人でありながらうずもれていたのは驚きだ。詩集を出すことが再評価のきっかけとなることを期待している」と強調した。
未発表の作品群は、6月28日に石垣市民会館で開催される「戦後70周年記念コンサート よみがえれ!ふるさとのうた」(八重山音楽協会主催)の公演に向けて、八重山で作られた歌の掘り起こしをしている三木氏が、宮良氏の長男・薫氏(76)=宜野湾市=の自宅に保管されているのを見つけた。
発見されたのは詩118、歌詞32、短歌32の計182作品。手書きの詩稿や新聞、雑誌に投稿した詩や随筆のスクラップ帳など5冊に収められていた。このうち、「八重山夜曲」「与那国音頭」「いも一つ」などが未発表であり、いずれも戦後八重山の時代相を感じさせるものが多く含まれている。中には「詩集 1953・1、詩人、宮良政貴」と装飾を施された冊子があり、出版の機会をうかがっていたとみられる。
宮良氏の作品「愛の子守歌」は「坊やの父様どこにいる」で始まる哀愁を帯びた歌。大工哲弘さんのアルバムには作詞作曲「詠(よ)み人知らず」と収録。三木氏も今回の調査で宮良氏の作品であることを知ったという。宮良氏の作品では与那国町の「久部良小学校校歌」の作詞が知られている。
■宮良政貴(みやら・せいき) 1907(明治40)年10月4日生まれ。父・政衛、母・マンタルの三男。屋号「マイクン屋」。登野城出身の我那覇米と結婚し、子どもは3男2女。沖縄戦で米軍捕虜となり、ハワイで収容所生活。戦後、八重山群島政府勤務。64年2月26日に他界(享年58)。学歴や戦前の職歴などは遺族でも分からない。