琉球王府時代に多良間島の人たちが平久保半島に渡り、稲作を行っていた場所とされる「多良間田(タラマダー)跡」について、石垣市は本年度、資料収集など基礎的な調査を行うことにしており、中山義隆市長は「どのような状況になっているか確認し、保存できるか調査したい」としている。10月には石垣―多良間間の航空路線が再開することになっており、市と多良間村は今後、多良間田跡を交流につなげたい考えだ。
市史編集課によると、多良間田は平久保半島東側の崎山川(サキャンガーラ)に近い市有地内にある。海側のリーフの割れ目は多良間口(タラマフツ)と呼ばれており、そこから船を入れていたのではないかとみられるという。
「多良間田」の表記は1752年編さんの「宮古島記事」に登場。同記事は、多良間の人たちが稲作や材木確保のために平久保村に渡っていたことを紹介するなど、多良間田の由来を記している。
その時点ですでに伝承となっていることから、多良間の人たちが米を作っていた時期は1752年よりさらに前とみられる。
現在は草木に覆われて見えなくなっているが、市史編集課が1989年に撮影した写真から畝の跡が確認できるほか、2011年3月に発行した「石垣島の風景と歴史」では導水路の跡も残っていると紹介している。
このため、多良間の人たちが稲作をしなくなって以降、地元の人たちが利用していたことがうかがえるという。
約200世帯で構成する八重山在多良間郷友会の山城吉博会長は「10月には多良間路線も再開されるので、多良間田を活用して親島との交流がより親密になるとうれしい」と市の調査に期待。
多良間村の伊良皆光夫村長は「多良間田で島の子どもたちに体験学習をさせ、若い人たちにはサバニをこいで平久保に渡るという体験をさせたい。多良間田が石垣市との交流のきっかけにできれば」と話している。