■脱力して子どもを見守ろう
木々が芽吹く季節—。やがて新学年度が始まる。新しい学年・学級、新しい学校に子どもたちばかりか親もおのずと胸高まり夢を語っていることだろう。ことに、初めてわが子を入学させる、あるいは上級学校に進学させる親は希望の中にも一抹の不安を抱いているのではないだろうか。ここは脱力して対話ムードに入ってほしい。
力が入り過ぎると、どうしても親は意のままに子どもを操縦しようとする。これでは子どもの自主性を損なってしまい、教育の基本である「自ら」考え・行動する子—が育っていかない。これは何も親に限ったことではなく担任にも言えることである。
いま一度、「親」という漢字を見てみよう。立っている木に登って遠くにいるわが子の様子を注意深く見守る|こう分析される親の姿を表す。接近し過ぎず子どもを見ることが大切である。その方が子どもの全体像がよく見えるものである。
近年は少子化ということも手伝ってか、大事に育てる|が高じ、子どもを引き寄せ過干渉で自立心を奪っている親が多い。また、過剰なまでの反応で担任に何かと注文を付けるモンスターペアーレンツと呼ばれる保護者がいる。そのことは結局、反作用として子どもにはね返り子どもの自律心を損ねることになる。対話の姿勢を崩してはいけない。
■自発的精神があっての「学び」
親は子女が満6歳に達すると、その最初の4月から小学校に入学させる義務を負う。これを受けて子は学校生活をスタートさせる。希望すれば大学までの16年間学び続ける。長い学びの道のりだ。その間、「人格の完成」をめざす。人間として持って生まれた性質を円満完全に発達させなければならない。いわゆる「人格の陶冶(とうや)」である。親も教員もこのことを抜きにしての指導はない。
学び続けるには、自主的精神に充ちた心身ともに健康な子|が基礎にある。人が育っていくには、自立心、自律心、自主的精神などの語彙(ごい)で表される「自ら考え行動する」がいかに大切であることか。親や教員は自己の半生を振り返りつつ教育にあたりたい。
■学力は「人格陶冶」の一部分
学びには、ドリル学習のような技能・訓練的な要素を多とする学習と、経験や興味関心から物事の真理を追究する思考性を主とする学びがある。これらは対立する学力の概念ではなく連関もしくは補完し合うものである。共に能動的なものがあって究められる。
子どもは未発達な存在である。すべての時、場面で自ら学ぶ姿勢を持っているかと言うとそうではない。それゆえに親や担任の悩みや苦労が尽きない。そこを水先案内人となって教え導きたい。つまり、学力を付けることも人格陶冶の内ということだ。
おおよそ多くの子どもは優劣の差がそれ程あるわけではない。また、その子らしい特性を持っているものだ。
太陽光線は色彩を持っていない。光線が物体を照射することにより客体は色彩を放つ。客体に内在されていた色彩が表出され特性が現れる。親、担任が光線になることを願う。