■他校も大浜中見習い挑戦を
日中は30度を超す猛暑が続いているが、ツバメやピンクの細長い脚をした水辺のバレリーナの愛称で知られるセイタカシギも飛来し、自然界はゆるやかに秋に向かっている。
八重山は3市町議会議員選挙の真っ最中だが8日は旧暦の十五夜、きょう6日は十三夜、石垣市恒例の「とぅばらーま大会」である。十三夜の月の下、朗々と歌われる思いの丈に耳を傾けたい。
さて、歌唱の部の応募者が年々増えているのに対し、作詞の部の応募者数はここ3年間では最低の76人(一般39人、生徒37人)である。歌唱の部は流派のコンクールを通してよく歌われているせいだろう。それに比べ、作詞の部は石垣方言での作詞で、家庭や地域でほとんど方言を話す機会が少ないだけに難しいのであろう。
ところで、今年も大浜中学校の生徒37人の応募があった。これまで応募のあった二中や竹富中からないのは残念だ。教諭たちによれば八重山は多くの移住者がおり、方言をどう扱うか、作詞となればなおさら指導が難しいという。しかし大浜中の例を手本にすれば指導はできるのではないか。尻込みするだけではなく、チャレンジ精神がほしい。
■画一化で独特の節回し消える
本島の恩納村では「恩納ナビー琉歌大賞」を実施している。一般の部と児童の部(中学3年以下)が設けられ、児童生徒向けの琉歌教室も開かれ、今年で17回目という。参考にすべきではないか。
9月18日は「しまくとぅばの日」である。とぅばらーま大会は終わっているが、作詞教室を開催するいい機会だと思われる。
近年のとぅばらーまは流派の歌唱法が普及し、画一化して、個人や地域独特の節回しが聴かれなくなったのは寂しい。
歌唱には「野とぅばるま」「道とぅばるま」「家とぅばるま」「ばっかいとぅばるま」などがあり、それに石垣風、川平風、新川風、登野城風、白保風など地域の節回しがある。時代の成り行きとはいえ、とぅばらーまの持つ幅広い表現力や魅力が狭められ八重山の精神が失われていくようで残念である。
■「歌う者こそ主」の本来の意味
「ウターイズスドゥヌシィ」という言葉がある。意訳をすれば「歌う者こそ主である」と味気ないが、歌が自分の思いを相手に訴えるという本来の意味からすると、他者の歌をまねるのではなく、自己の思いの丈を歌うべきだということであろう。
とぅばらーまに生命を吹き込み、魅力を取り戻すためにも、流派の枠組みを離れ、伝統の歌に目を向けることも必要ではないか。古典民謡の師匠たちにも、ぜひ取り組んでほしいものだ。
とぅばらーま大会は1947年に開催以来、67年間(途中中止もある)続いており、八重山が誇るイベントである。それだけに屋外での舞台装飾や音響、照明、スクリーンなどの装置も必要だろう。
しかし、それらの装置に重きを置き過ぎていないか。いい舞台、いい音響という主催者の配慮も分かるが、あまりにも出場者はマイクに頼り過ぎではないか。マイクを通さない肉声だけの歌唱があってもいいのではないか。舞台と観衆が分離するのではなく、一体化した野外での大会もそろそろ考える時期だと思われる。