1945年7月3日、最後の疎開船として石垣港から台湾に向かっていた2隻が米軍の機銃掃射を受け、多数の犠牲者を出した「尖閣列島戦時遭難事件」から69年目を迎えた3日、尖閣列島戦時遭難者遺族会(慶田城用武会長)は、新川舟蔵にある死没者慰霊之碑で慰霊祭を行った。遺族や関係者らが参列し、犠牲者の冥福を祈ったほか、慰霊碑が平和の砦(とりで)となるよう願った。
慰霊祭では桃林寺住職による読経の後、参列者一人一人が焼香し、手を合わせた。
慶田城会長は「遺族会は、慰霊碑が国境の平和の砦となるよう慰霊祭を行っている。尖閣近海が平穏であることを願う」とあいさつ。八重山市町会を代表して中山義隆市長は「戦争を二度と起こさず、後世に正しく伝えることが犠牲者の御霊に報いることになる」と述べ、平和の発信に決意を新たにした。
平和学習の一環として慰霊碑周辺の環境整備に取り組んでいる八重山農林高校緑地土木科は今回、ヤラブの苗10本を植樹。慰霊祭には同科の生徒2人のほか生徒会からも3人が参列した。
同事件について初めて知ったという上江洲安志君(3年)、山城夏生君(同)、宮良彩さん(同)は「ほかの人にも知ってもらいたい」「次の世代にも伝えなくてはならないと再認識した」「沖縄戦が終結した後もたくさんの人たちが亡くなったことを知った。もっと勉強して知らなければならないと思った」と話した。
【尖閣列島戦時遭難事件】
最後の疎開船として第一千早丸と第5千早丸は1945年6月30日、180人を乗せて石垣港を出港。尖閣諸島近海を航行していた7月3日午後2時ごろ、米軍機に発見されて機銃掃射を浴び、第5千早丸は炎上沈没。第1千早丸は機関故障で航行不能となったが、修理して魚釣島に漂着した。銃撃されたり、溺れたりして多くの犠牲者を出したほか、1カ月以上に及ぶ魚釣島での生活で餓死者もいた。慰霊碑には80人の名前が刻まれている。