■聖職とはいかなくても
このところの教育界の不祥事には目に余るものがある。
覚せい剤の使用や、女子トイレに隠しカメラを設置し職員を盗撮するなど常人では考えられないことが起きている。しかも共に校長のしたことだ。
あるいは、勤務先の入学式に年休を行使しわが子の入学式に出席。また、授業参観、PTA総会のある日に有給休暇を取りのど自慢大会に出演した女性教師。職業意識や使命感はどうなっているかと嘆息をつく。有給休暇を承認した校長の学校管理意識はこの程度のものか。
後者の教諭の行為について賛否の世論があるところが現在のわが国全体の規律の緩みを見る思いだ。教職は聖職―との立場をとるものではないが、少なくとも目の前にいる子を変容させるために、人の道を教え、諭し、導き、夢を語ることをなりわいとしている。この己の立つ位置を知るならば、そんなことなどできるまい。
■辞令を拝した時の
公僕は辞令を拝して職場を得る。校長職や初任者研修を拝命した時の、あの新鮮さや緊張感があれば到底前述のようなことはできないはずだ。やはり、どこか自分の仕事に対する甘えや弛緩(しかん)があるのではないか。
「夜明け前」や「破戒」で知られ、自然主義文学を代表する島崎藤村は「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」|と田舎教師時代のころ自らを省みている。今、藤村のこの言葉に学びたい。自らを新鮮、簡素にすることで緩んだ職業意識を高邁(こうまい)な職業観で張りなおさなければならない。
教職に身を置くものは、入学式に限らず、卒業式、運動会、学芸会などわが子の学校行事に時として欠席を余儀なくされることがある。そんなとき、この職業を選択したことに悔恨の情を持ち、涙を流すこともあろう。だが、自分がいてはじめて学級や学校が動き、機能していくのだと奮い立たせ出勤するはずだ。そんな尊いことを放棄して教育が成り立つはずがない。親のこういう姿を見て、わが子はむしろ親を信頼し、職業意識の高さに尊敬の念を抱くのではないか。
■教育改革が進んでも
矢継ぎ早に教育制度改革が進んでいる。やがて戦後70年、中には動脈硬化を起こし柔軟性を失っている教育の在り方もあろう。だが、こうも次々に制度が変わると、疲労感に満ちた今の学校にそれへの順応力が果たしてあるだろうか。制度先行、教員意識の停滞では改革の意味がない。
技術、機器の長足の進歩で私たちは、便利さ故に安きに流れることが多い。大学でのコピペもその一つ。他人のものを借用し自分のものとして仕上げる。そこには自分の頭で考えることを失った若者像が浮かぶ。教員にも似たようなところがある。先の公民教科書調査員の評価もその例だろう。試験問題作成は市販参考書からの抜粋や換骨奪胎ではないか。
オリジナル問題を作成するぐらいのプロとしての誇りがほしい。親や子どもからの信頼を得てはじめて教育への時勢は一変する。