このところ、活字メディアを中心に「日本人論」が盛んに論じられている。テニスの大坂なおみ、陸上短距離のケンブリッジ飛鳥、サニブラウン・ハキーム、柔道のベーカー茉秋らの活躍が注目を集め「日本人って何?」という違和感がその源になっているようだ。
■変容する通念
日本の南の端の島々でもテレビのリモコンボタンを押せば情報は世界とつながっている。島の日常生活で身近に感じることはないかも知れないが、観光などで外国人との接触が増えるにつれ、いずれ突き付けられる問題なのかも知れない。復帰前に小学校教育を受けた世代にとっては「わたしたちはよい日本人になりましょう」という教師の言葉が記憶にあるに違いない。それまで日本人ではなかったのである。
さて、では日本人とは何か。一般的にその条件として考えられてきたのは日本国籍があること、日本人の両親から生まれたこと、日本語ができること、日本に住んでいることなどとイメージされてきた。その中で法的根拠としては国籍だけだ。国籍法では、どちらかの親が日本国籍であればその子が国籍を取得できるので両親そろって日本人でなくてもよいことになる。前述の選手らが日本人として扱われるのはそのためだ。グローバル化の波を受け社会通念も変容せざるを得ないのである。
■85年に改正法
しかし、それもつい最近のことで1 9 8 4年末までは父系主義が採られ外国人の父と日本人の母との間に生まれた子には日本国籍が与えられなかったが、無国籍児が問題化したことを受け、 85年1月1日に改正法が施行されている。これによって日本の女性は自分の子に日本国籍を与えられるようになったわけだ。
つまりこのように85年以降、それまでの日本人という概念が変わったのである。容姿は外国人なのに国籍上日本人なのである。テレビに登場する外国人の中には日本人より流ちょうに日本語をしゃべる外国人が増えている。彼らの中には意識として「わたしは日本人」という人が少なくない。こうした本人の意識を大事にしなければならない時代になりつつある。
先日の県知事選で圧勝した玉城デニーさんも米海兵隊の父を持つウチナーンチュとして知られ、同じような境遇の若い人の期待を集めている。金武町生まれのデザイナー、親富祖愛さんもその一人だ。
■「私は私です」
「ハーフ、ダブル、アメラジアン…。どの言われ方も違和感がある。米国で育ったことはないし、父も不在なので米国にルーツを感じない。何者かと聞かれれば『私は私』だ。これからも私のような存在は増えるだろう。デニーさんは、そんな子どもたちにとって父親代わりのような存在になるんじゃないか。そう期待している」と話している(10月30日付沖縄タイムス)。
米兵の祖父と日本人の祖母との間に生まれた母を持つ社会学者、下地ローセンス吉孝さんは次のように指摘している。
「既に日本は非常に多様な社会だ。現実に認識が追いつかない状況を解消しなければならない」(11月2日付琉球新報)。