米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設の反対派の象徴的存在だった沖縄県知事の翁長雄志氏が8日、死去した。67歳だった。4月に膵臓(すいぞう)がんの切除手術を受け、治療しながら公務を続けていたが、7日に体調が急変し、意識混濁の状態となっていた。
翁長雄志知事が八重山を最後に訪れたのはことし3月3日の石垣市長選告示日前日。翌4日にかけ、応援弁士としてマイクを握り、「1票差でも必ず勝つことが石垣市の平和な街づくりを引き継ぐことになる」と訴えていた。平得大俣への陸自配備計画が大きな争点となる中、この問題には一切触れず、保守系の内面が垣間見えたが、それでも県知事選で民意を勝ち取った米軍普天間飛行場の辺野古移設反対には最期まで意思を貫き通した。
「とにかく残念としかいいようがない」。
県政与党の一員として翁長知事を支えてきた次呂久成崇県議は開口一番、声を落とした。3月の市長選では選対本部長として翁長知事を迎えている。
「僕の車の中で2時間くらい話をした。なぜ翁長知事が政治家になったのか、なぜ僕が政治家を志したのか、いろんな話をさせてもらった。大変な時期だけど頑張れ、気軽に相談に来いと言われ、政治家として人として温かみのある人だな思った」と振り返る。
「今は辺野古問題で踏ん張りどころ。本当に必要な人だった。僕たちが知事の意思を引き継いで戦っていくしかない。歯を食いしばるしかない」と辺野古移設阻止に決意を新たにした。
県政の最重要課題である辺野古問題に忙殺されていたためか、八重山など離島に足を運ぶ機会は少なかった。「離島を軽視している」と批判を展開してきた前県議の砂川利勝氏は「立場の違いはあるが、政治家として死ぬまで頑張ったことはすごいことだと思う」と敬意を表し、「心労もあったのだと思う。沖縄のために頑張ったことは評価されると思う」と気遣った。
元石垣市議会議長の入嵩西整氏は「素晴らしい国家観を持っていた。『オール沖縄』という新しい政治をつくってくれた。志半ばで亡くなったことは沖縄にとって惜しい人を亡くしたことになる。残念でならない」と話した。
ことし3月の市長選で支援を受けた宮良操氏は「自分の命を削りなら沖縄の自立と平和を確立しようとした人であった。知事選では死に物狂いで戦うつもりだったが…」と声を落とした。
市議、県議として長い付き合いのある元県議会議長の髙嶺善伸氏は「昭和25(1950)年の同期で、いっしょに政治家を志し、励まし合ってきた。知事選では、沖縄対政府という構図の中で受けて立つという覚悟を持って戦った。最終的には命をすり減らして責任を全うした。沖縄のために命をささげた。党派や政党を超えた過去にない政治家だと思う。悔しい、悔しい」と声をつまらせた。
【八重山3市町コメント】
■ご指導いただいた 中山義隆石垣市長
県知事になられてからは政治的に対立する場面もあったが、私の市長選1期目のときには応援に駆けつけて下さり、先輩市長としていろいろご指導をいただいたこともあったのでとても残念。心よりご冥福をお祈りしたい。
■素晴らしい政治家 西大舛髙旬竹富町長
元は同じ自民党だったが、全てを捨てて沖縄県民のために尽力した。政治信条は違うが、素晴らしい政治家だった。
■志半ば無念であろう 外間守吉与那国町長
非常に残念だ。辺野古問題で翻弄(ほんろう)されたという印象が深い。国と対峙(たいじ)してきた、まれに見る政治家だった。志半ばで亡くなったことは悲痛な思い、無念の思いがあったのだと思う。一貫して国と対峙し、自分の信念を押し切ってきた姿勢は今後語られることだと思う。