昭和53年の交通方法変更、いわゆるナナサンマルから40年。米軍政下の「車は右」から「左側通行の日本」になった日である。復帰の「世替わり」の総仕上げだった▼当時の石垣は車両が少なく交通信号機も文館角に1基だけ。農村部ではまだまだ馬車が健在なのどかな時代。そんな島々にも世替わりは容赦なく、たった一夜の通行禁止で右から左へ▼その頃のさる若者の話である。人は若いというだけで可能性に満ちている。一方で無謀でもある。彼は昭和50年、普通運転免許の取得を目指した。当時、石垣では試験が月1回しかなく、大学の夏季休暇期間では仮免しかとれない。本免許は東京の府中試験場で受けることとした▼実地試験の現場は片側3車線の甲州街道。いまでも車線変更できる道路すらない田舎出の若者は、試験中に接触事故を起こしあえなく撃沈。当然だ。仮免は沖縄仕様の左ハンドル車なのに本免は右ハンドル。教官に「君は沖縄でとれ」と説諭され無罪放免▼でも「一国一制度」の名のもと変更を強行した政府も無謀ではなかったか。路線バスの事故多発など数々のトラブルに見舞われた県民こそ世替わりの悲哀を味わった▼その名を冠する交差点に立つ石碑は、沖縄の歴史などに関心のない観光客の記念写真撮影の背景だ。若者の名は?(慶田盛伸)
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