■キレやすくなった大人たち
知人がこの頃は石垣島でもキレやすい大人が増えたと話した。車の運転中などにそう感じるらしい。確かに怒りをあらわにするドライバーがいる。相手の少しの落ち度にも過剰に反応する。けたたましくクラクションを鳴らしたり、時には腹いせのように危険極まりない追い越しに打って出たりする。意のままにならないと自分がないがしろにされたように思え、見境が利かなくなるのだろうか。身勝手でしかない自己主張である。
知人は自分のことは棚に上げて相手の非を責める大人が増えたとも話した。先日はスーパーマーケットの駐車場で若い女性にひどい形相でにらみつけられ、とげとげしい言葉を投げられたという。駐車のスペースに余裕がないのでやむなく頭から進入して駐車した車をバックさせたところ、向こうからスマートフォンをのぞきながらやって来た若い女性の前方をふさいでしまったのだ。
■素直に非を認めることで
心優しい知人は、あの時車から降りてわびればよかったと悔やんでいた。そのように行動することで、あるいは若い女性も、こんな場所でスマホに夢中になっている自分も不注意でしたと応えたかもしれないとも話した。車を運転中のこちらのミスについても頭を下げて見せるだけで相手の心証は随分和らぐものだからとも続けた。
示唆に富む話だと思った。今度は若い女性の笑顔が目に浮かぶ思いであった。素直に非を認めることは相手の寛容性にも作用すると信じたい。自らの非を認めないことと相手への過剰な反応はひとつながりに思えないこともないが、それとは真逆のベクトルを思い描いた。そういう実践が大事だろう。「キレる」を回避するちょっとした「成功体験」の積み重ねである。負ならぬ正のスパイラルの構築に向けた実践である。この頃の大人は規範意識の大切さや道徳の価値項目については経験上知っているが、それを行動に移す力、道徳的実践力が弱くなっているのではないかとは知人の指摘であった。
■子どもたちのためにも大人は度量を
教師の多忙化が依然として深刻な状況だ。あるいは保護者対応等でストレスをため込んでいないだろうか。不登校の子どもたちへの指導、対応も一筋縄ではいかないだろう。それでも教師には余裕と指導力が必須だ。子どもたちの前で「キレる」なんてことがあってはならない。キレることで子どもたちとの信頼関係は損なわれるだろうし、だいたいキレるという情動は自信のなさ、指導力のなさをさらけ出すようなものだ。とはいえ行政にあっては部活動指導のあり方の見直し等々教師の負担軽減、解消に向けて具体的で有効な手だてを早急に講ずるべきだろう。
石垣市の学校でもいじめの認知件数の増加が問題になっている。これはある意味大人社会と無縁ではないかもしれない。余裕を持てずにすぐキレたり、非を認めない大人の姿を見せつけられたら子どもたちはどこへ向かえばいいのか分からなくなり、問題行動はますます増えるだろう。大人としての度量の大きさや他をおもんぱかる心持ちを心掛けたいものである。