■宮古と八重山の方言事情
「第24回鳴りとぅゆん みゃーく方言大会」を動画で見た。マティダ市民劇場を埋めた聴衆の短い間隔で鳴り響く拍手と湧き上がる笑い声。くつろいで宮古フツを楽しむ風情であった。
去る8月の石垣市文化協会主催「第7回すまむに(方言)を話す大会」は石垣市健康福祉センターの会場が埋まるほどの市民の姿があったが宮古の比ではなかった。聞き手の反応もおとなしかった。スマムニの将来が案じられてかしこまってしまうのだろうか。十分にスマムニを共有できなかったのか。宮古でも若年層や中年世代で方言を話せない人が増えているようだが、八重山と比べるとまだ話されている方だろう。
八重山は離島が多い上にそれが広範囲に分布する。隔絶するほどに各スマムニの独自性は増すのだから中心地の石垣島では勢い共通語の需要が高まったのだろう。かつては四カのスマムニが共通語の役割を担ったようだが、いつしかそれも衰退していった。
■共通語を豊かにする可能性も
スマムニを衰退に向かわせた最たるものは「方言撲滅・標準語励行運動」だろうが、ここではその功罪に触れない。ただいまさらではあるが共通語を推進する過程でスマムニに一定の評価を与える配慮があってしかるべきでなかったろうか。少なくともスマムニは劣ったもの、卑下すべきものとの不見識をただす余地はなかったのか。
ところで共通語オンリーの今の若い世代にスマムニ体験は意義があると思う。スマムニに触れることで日常の言葉遣いに意識的になるだろうし、スマムニの微妙なニュアンスや味わい深い表現に接することで自らの共通語をも豊かにしてくれるに違いない。スマムニの用言の活用の規則性と共通語のそれの類似は文法を体感させるだろう。ヨーロッパでは数カ国語を話せるものは珍しくないようだが、それは言語と言語が共鳴し類似性や法則性を足掛かりに比較的容易に新たな言語の習得に向かうからではなかろうか。一般学力にしてもスマムニを学んだから下がるなんてことはなく、むしろ逆だろう。
■スマムニ解せぬ痛み・新手の仲間
海外生活が長いスマムニ大会出場者の一人は「ヨーロッパでは、どこにいっても友達と話していると自分の言葉を誇りに思っている」(大会印刷物和訳。以下同じ)と紹介した。続けて「自分は日本語はもちろん、英語もフィンランド語も勉強した」が、一番身近な「おばあちゃんやおじいちゃんの言葉がどんどん分からなくなっていることが大変悲しくなりました」と涙声で継いだ。あまりの不条理にこみ上げたのだろう。そのことは並みいる聞き手も同様だったらしく、前後左右から鼻をすする音が聞こえ、ハンカチを目に当てる人も少なくなかった。
出場者には2組の夫婦を含め5人の県外出身者がいた。いずれも大会に向け並々ならぬ練習を重ねたことがうかがえ好感がもてた。中には月に2回スマムニ教室に通う人もいた。那覇から映像で見事なスマムニでのメッセージを届けたマシュー・トッピングさんを加え強力な味方の登場であった。彼らがひかれるスマムニに私たちはもっと自信と誇りをもっていいだろう。