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仲本賢貴の顕彰碑建立を

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■八重山の近代稲作の父

 一期作の田植えもほぼ終了し、農家もホッと一息ついていることであろう。昨年は寒さや曇りの天候不順が続き、稲の成長が遅れ、2度も田植えをする農家もいたが、今年はいまのところ順調のようだ。

 八重山は県内稲作の主要産地で、県の調査によると一期作と二期作を合わせた作付面積は603㌶と県全体の65%を占め、生産量は2720㌧と県全体の68%に達している。主要品種は「ひとめぼれ」である。

 八重山の稲作栽培を近代化し、県内主要産地とするために尽力し、大きな功績をのこした人に故・仲本賢貴がいる。仲本は字石垣出身で中頭郡立農業学校卒業、大正末期から昭和初期のソテツ地獄と呼ばれた大恐慌時代に、沖縄県八重山支庁の農林技手として勤務した。

 当時の八重山の稲作品種は、在来品種と呼ばれた籾(もみ)つきの悪い、いわゆる古代米であった。栽培法も旧態依然で、化学肥料は金がかかるということで金肥と呼ばれ、使われず、無肥料状態で1反歩(990平方㍍)当たりの収量もわずかに8~9斗(約144.312~162.351㍑)しかなく、ほとんどが一期作であった。

 仲本は2000㌶の水田を有しながら、食糧米を移入している状態や、農家経済の疲弊などを新品種導入で稲作を改革するため1925(大正14)年渡台した。八重山と気候風土を同じくする台湾では新品種の研究が進められていた。

 

■台湾から台中65号導入

 仲本は台湾総督府農事試験場から台中65号など数品の種籾(たねもみ)を持ち帰り、農業改革に意欲を燃やす青年たちの協力もあり当初は失敗し、非難されたがやがて成功させた。これによって、蓬莱米と呼ばれていた台中65号は急速に普及した。反収も増え、千歯では追いつかず脱穀機が導入された。籾を入れるカシガー(南京袋)も普及し、稲叢(いなむら)は姿を消した。精米所もでき、女性や子どもたちは精米の重労働から解放された。二期作栽培も本格的に始まり、余剰米は販売され農家の家計をうるおした。

 仲本が台湾から導入した品種によって八重山の稲作栽培は近代化し、八重山の社会も変貌した。仲本の功績は大であるが、稲作農家にさえも顧みられず、歴史の闇に埋もれている。

 

■井戸を掘った人の恩忘れず

 昨年は石垣市と岩手県の「かけはし交流」を推進した、元岩手県副知事で、種籾増殖事業の責任者であった故・高橋洋介氏と、石垣市に常駐し事業を成功に導いた故・菅原邦典氏の顕彰碑が真栄里公園に設置された。また一昨年には、パイナップルと水牛を導入した台湾人入植顕彰碑も建立された。

 中国には「井戸を掘った人の恩は忘れてはならない」ということわざがある。先人の苦労をねぎらい、感謝の気持ちをあらわした言葉である。近代八重山稲作栽培の礎(いしずえ)を築いた仲本の功績も忘れてはならない。顕彰碑を建立し、たたえるべきであろう。石垣市教育委員会も副読本などを通して、仲本の功績を紹介すべきだ。忘恩の民になってはならない。


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