■琉球列島をつぶさに踏査
去る2日の新聞報道(沖縄タイムス)に「『南島探験』最初の原稿か 古書店が入手」との見出しで、宜野湾市の古書店「榕樹書林」が南島探験の最初の原稿とみられる貴重な文書を入手したことが報じられている。
笹森儀助は、1893(明治26)年5月10日に青森県弘前を出発し、沖縄本島、宮古島、石垣島、鳩間島、西表島、内離島、与那国島、与論島、沖永良部島、徳之島、奄美大島など琉球列島をおよそ5カ月かけて綿密に調査した。その成果である「南島探験」は、当時の民衆の悲惨な生活実態や表情を詳細に記述し、支配層に対する義憤をあらわに論じたきわめて貴重なドキュメントとして、今日でも多くの示唆に富む名作である。
笹森儀助は、1845(弘化2)年、青森県弘前在府町に生まれ、1915(大正4)年に71歳で逝去した。千島列島をはじめ琉球など各地を巡って調査記録を残したすぐれた記録作家であり、奄美大島の島長や弘前市長を務めるなど行政官としても活躍した。
時の内務大臣井上馨から、南島の糖業を拡張する必要性を説かれ、毒蛇ハブや風土病マラリアを恐れつつも、およそ5カ月間におよんで南西諸島の調査を行い、1894年に報告書としてまとめたのが「南島探験〜琉球漫遊記〜」である。
■笹森儀助の義憤
報告書の内容は、地域振興などの経済政策に限らず、厳しい自然環境、人頭税やマラリアに苦しむ人々の暮らしの様子など多岐にわたっており、今日の私たちにおよそ120年前当時の生活実態を伝えてくれている。
本島各地の調査を終え八重山では、まず「八重山一等の豪族門閥(もんばつ)家」である大川村の宮良当宗宅(宮良殿内)へ投宿して調査を始めるのである。本来の目的である農業、漁業の調査を行うかたわら、琉球王府時代の過酷な身分制、人頭税にじかに接して、それにあえぐ人々の悲惨な状況に悲憤慷慨(こうがい)し、行政の無策と怠慢を厳しく糾弾している。
特に1879(明治12)年の廃藩置県後も残っていた先島の人頭税を「実ニ厭(いと)フヘク忌(い)ムヘキ」ことで「人民悲惨ノ状況、見聞スルニ忍ヒス」と義憤している。人頭税は10年後の1902(明治35)年に廃止されるが、笹森儀助の告発も大きく影響したといわれている。
また、人々の風習にも大きな関心を寄せており、当時の婦人たちの風習であった入れ墨ハジチ(針突き)に強い興味を抱き、「婦女皆、手ニ黥(いれずみ)」と、図柄を細かく写し取っている。「藁算(わらざん)ノ図」を残していることも、今日では貴重な資料として研究者に高く評価されている。
■笹森儀助展の開催を
このように明治中期の沖縄、とりわけ八重山の状況を決死の覚悟で調査し、今日に残してくれた笹森儀助の功績について研究者はともかく、一般になじみがあるとはいえない。
笹森儀助の出身地である青森県弘前市で2005(平成17)年7月26日から9月4日に「辺境からのまなざし 笹森儀助展」が開かれ、八重山からも舞踊団を派遣するなどの協力をしている。
研究者はともかく、一般にあまねく知られているとはいえない笹森儀助の功績をあらためて見なおす展示会等の企画を、貴重な資料を保管している青森県立図書館や、弘前市立図書館等と連携して3市町の文化担当部署など行政機関を中心に進めるべきであろう。