■「鷲ぬ鳥」作者探しに四苦八苦
寒風の中、2015年を迎えた。初日の出は雲が厚く望めないと思っていたが、雲間から顔を出し、黄金の光を放ち、新年を寿(ことほ)いだ。八重山ではかつて正月には屋敷に清浄の海砂がまかれ、床の間には松を生け、餅や花米を飾った。家族がそろい長老の年頭のあいさつがあり、杯をいただき祝膳を囲んだ。新年を迎えた家族は晴れやかで、華やいでいた。近年核家族化が進み、そのような正月の光景が見えなくなったのは寂しい。とはいえ、淑気のなか、寿ぎの「鷲ぬ鳥節」を聴くと身が引き締まる思いだ。
「鷲ぬ鳥節」はアコウの大木に巣を作った鷲が、卵を産み、雛(ひな)をかえし、正月元旦のうららかな陽を浴びて、若鷲が親鷲と東天指して悠々と舞うさまを歌っためでたい歌である。三線にのせて謡う「鷲ぬ鳥節」は「鷲ゆんた」をもとに作詞されたといわれる。
明治期に、沖縄研究の先駆者伊波普猷が取りあげたことから、県内外に広く知られるようになった。伊波から作者探しを依頼され、四苦八苦した喜舎場永の話は有名だ。
「鷲ぬ鳥節」の鷲については、鳥説や船説がある。また「びる羽」についても諸説がある。近年は機織との関係説や、薩摩の古語「ボロ」(若鳥の羽毛)との関連を指摘する説もある。
■「とぅばらーま」も宮古と関連
八重山の研究者たちは隣の宮古を通り越して、本島や本土と直結する。しかし、宮古には「白鳥(っすとぅい)ぬあーぐ」という「鷲ぬ鳥節」や「鷲ゆんた」と内容がそっくりの歌がある。だが、民謡研究者たちが比較研究した形跡はない。
宮古のアーグと八重山の古謡や節歌と関連があるものを挙げると「とぅばらーま」と「伊良部とうがにー」、「あがろうざ節」と「東里んなか」「いきぬぶじじらば」はすでに指摘されている。「越城節」と「越城目差親」「やまばれーゆんた」と「ヤンバルヌシクニャーヌツディアニ」なども関係がいわれている。
また「網張ぬみだがーまゆんた」も、ロシアの言語学者で『月と不死』の名著を残したネフスキーが伊良部島佐良浜で採取した「アワの播種(はしゅ)の時に歌われる歌」に登場するカニ「ヒヤイマ」が「パルマヤーカン」の特定に多いにヒントを与えてくれるとの話もある。このように宮古民謡との関連や視座を欠落した八重山民謡研究は大きな損失ではないか。
■宮古との関連研究を
八重山と宮古は地理的関係から歴史や文化、政治の面での大きなつながりがあるのはいうまでもない。そのような関係を明らかにしようと八重山、宮古の歴史、文化研究者たちによって「先島文化交流会議」が結成され、毎年1回、交互に意見発表会を開催してきた。だが、ここ数年開催されず自然消滅した感がある。
昨年、八重山、宮古の若い研究者たちが交流し、新たに先島交流会議を発足すべきではないかとの声が挙がっていた。近年は世代交代も進み、研究も深化している。双方の研究者たちが交流をしながら発表会を持つことは先島研究にとってうれしいことだ。
八重山、宮古は本島とは違った歴史や文化を歩んだ。同じ先島圏でありながら八重山と宮古でも相違がある。そしてそれぞれの島にも独自の貌(かお)がある。ミクロとマクロ、共通と相違を新たな視点から捉え直す、先島交流会議が誕生する年であることを望みたい。