■1世紀以上前の建造物
新石垣市立博物館構想検討委員会(石垣博孝委員長)が発足し、会議を重ねている。新博物館構想については以前も検討され報告書も出された経緯がある。しかし、掛け声だけで終わってしまったのは惜しまれる。
中山義隆市長が選挙の際、公約した水族館建設との財源的な兼ね合いもあるが、新博物館構想が市長の人気取りであっては困る。博物館は建物の老朽化はもちろん収蔵庫も満杯状態であり、民間の倉庫を借用して保管している状態である。
このような状態は収蔵品の保存からしても憂慮すべき状態であり、博物館の早期建設は水族館より急務だ。八重山博物館には古民家の構築材も数件、倉庫に保管されている。そのひとつに、旧真栄里首里大屋子(マジィドゥシナゴーヤー)の構築材もある。
同家は棟木によれば、1904(明治37)年とあり、110年前に建築されたことが判明する。1世紀以上の建物である。1889(明治22)年、首里王府は家屋制限を解除し民間の瓦ぶきを認めた。これを機に真栄里首里大屋子家もかやぶきから瓦ぶきにふき替えたと思われる。同家は床面積202・143平方メートル、平屋建て寄せ棟造本瓦ぶきである。
■日本民藝館が市に無償譲渡
移築以前は、大川の沖縄銀行八重山支店近くにあったが、1967(昭和42)年、財団法人日本民藝館が購入し、首里金城町に移築された。75年、沖縄分館として開館し、沖縄の民芸品の展示や、織物の実演など一般公開され民芸運動の拠点として活用された。その後、事情により92(平成4)年4月に閉館した。付近の住民や、沖縄の民芸関係者、観光客からは閉館を惜しむ声や建物の移築反対の声も寄せられていた。
そんななか、日本民藝館(柳宗理館長)の「沖縄分館(真栄里首里大屋子家)は石垣市にあった旧家を移築して今日まで利用してきたがこの際、石垣市にお返ししたい」との好意によって石垣市へ無償譲渡が決定した。民藝運動は「用の美」を追求した運動であるが、真栄里首里大屋子家の建築物も、地元こそふさわしいという配慮からと思われる。
■復元計画なく、22年間も放置
石垣市文化財審議会は「この家屋は、歴史、民俗、美術史の見地における学術上重要な課題意義をもつ建造物だと思量、かかる貴重な物的資料が漸次消滅していく昨今、即刻当市への移還保護の実を挙げられることをこいねがう」と移築復元の意義を説いた。
92年、解体に着手し博物館裏の倉庫に搬入し保管した。100余年の構築材だけに、早急な復元が望まれたが、バブル崩壊もあり、移築復元は予算的にも厳しくなり見送りが続いた。その間、日本民藝館から早急な復元を求められたが、復元構想は時折話題となるだけで、本格的な構想や検討はなされないまま、移築資材は倉庫に今日まで眠ったままの状態にある。
構築材が古木だけに一日も早い対策が望まれる。移築解体工事関係者も2人だけとなり、彼らを招いて保存状態等の点検もすべきであろう。今年は、解体から22年目に当たる。石垣市は早急に復元に向けた対策や検討作業を開始すべきである。
それが、無償譲渡した日本民藝館に対する礼儀である。検討もされぬまま、いつまでも放置することは道義的にも許されない。