2005年秋、30人ほどの団体で台湾へ行った。当時は台湾行きのフェリーがあり、往路は基隆まで海路だった▼旅の目的は、かつての疎開地を訪ねること。先月8日に亡くなった仲地幸太郎さん=石垣市平得=は現在の桃園市龍潭区に疎開した経験の持ち主で、ツアーにはリーダー的な立場で参加されていた▼仲地さんは家族とともに龍潭で疎開生活を送った。戦争が終わり、石垣島へ戻るために蘇澳鎮の港町、南方澳へ移動したものの、船を待つ間に妹さんがおひとり亡くなられた▼05年の旅行では大型バスで南方澳をぐるりと回った。仲地さんは車窓から洞穴を見つけると、車を止めさせ、そこまで歩いていった。「これは防空壕(ごう)じゃないか」というのである。疎開体験に対する仲地さんのこだわりを感じさせるシーンだった。アジア太平洋戦争の末期には、確かに南方澳でも空襲があった▼龍潭にかつての面影を探すことは難しい(4月27日付本紙)。77年も経過すれば、町の表情も変わろうというものである▼残念なのは、その変化を確かめたくても、そう簡単には見にいけないということである。自らの足取りをたどり直したり、だれかの経験を追体験したりするには、その場所へ足を運ぶことが一番だ。遠くへ出ていける黄金週間の再来を待つばかりだ。(松田良孝)
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