■八重山初のメーデー中断
5月1日はメーデー(労働者の祭典)。「労働者が統一して、権利要求と国際連帯の活動を行う日」でもある。
メーデーは1886年5月、米国の労働者たちが当時、12時間から14時間という過酷な労働条件から8時間労働を求めて統一ストライキを行ったのが起源である。日本では1920年、県内では21年に第1回メーデーが開かれた。
メーデーの歴史は労働者による資本家、国家権力との闘いの歴史でもある。そのため資本や権力による厳しい弾圧や禁止が繰り返されてきた。
八重山では、47年に第1回メーデーが沖仲仕組合を中心に計画されたが、米軍の弾圧により中止となった。指導者の宮良長義氏と大浜孫良氏は逮捕され、軍事裁判で重労働6カ月の判決を言い渡された。理由は八重山民政府批判は、軍政府批判だというアメリカが唱える民主主義とは相反する内容であった。
48年には朝鮮人民共和国、翌年には中華人民共和国という社会主義国家が相次いで誕生、50年には朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した。米国は51年に対日講和条約を締結し、北緯29度以南を米国統治下に置いた。
東アジア情勢の急変は、米国の極東戦略に直結し、沖縄はその最前線基地の島と位置づけられ、基地建設のため、住民の土地が強奪された。米軍による人権蹂躙(じゅうりん)は日常茶飯事であった。
■劣悪な労働条件改善へ労組結成
本島では52年、沖縄人民党那覇支部主催による戦後初のメーデーが開かれた。米国民政府はメーデーを共産主義者マルクスの誕生日などという、荒唐無稽な宣伝をなし弾圧した。メーデー参加者をアカ(共産主義者)とレッテルをはり、就業先に圧力を加え解雇や妨害を行った。
基地建設が本格化し、非人間的扱いを受けた労働者による争議が起き、立法院で労働法が制定された。本格的な労働組合が誕生し、賃金や労働条件の改善はもちろん異民族支配からの脱却や自治権拡大など政治スローガンも掲げられた。
八重山では46年、食糧難のなか八重山郡教員組合が結成され、その後低賃金、長時間労働という劣悪な状態から、やがて電気、造船関係、全逓、全税、政府運転労組八重山支部、石垣市職労が誕生、59年八重山地区政府職員組合(官公労)が結成されパイン労組など民間組合も次々と誕生し、60年には第1回統一メーデーが開催された。
64年には八重山地区労働組合協議会が結成。これにより弱小企業労働者の支援や組合結成が促進され、労働者の権利を拡大した。
現在、連合八重山傘下の労組は18組合、組合員は約1500人だといわれる。県全体の労組数は500組合、組合員数は5万8271人(2012年)という。組合に関心を示さないノンポリが多くなり、組織率や組合員数が減少している。組合幹部は組合離れを嘆いているが、原因を分析し立て直しを図るべきだ。
■労組弱体化で平和の危機へ
安倍内閣は、戦後日本の根幹をなす平和主義を改変し軍国主義復活を目指しているのは明らかだ。八重山では尖閣諸島領有権問題、教科書問題、自衛隊配備計画など国家による強硬な姿勢が目立つ。労組の弱体化が、それを許しているのも一つの要因であろう。
尖閣諸島をめぐって日中の軍事衝突の危険性が論じられている。与那国町への自衛隊配備に次いで石垣島への配備も時間の問題。ことが起きれば、八重山は兵たん基地となり、労働者が動員されるのは確実である。
八重山を戦場にしてはならない。八重山におけるメーデーは平和のメッセージと国際連帯を世界に向け、強く発信すべきである。