古代インド人は人生の終わりに林住期というものを設定し、ある年齢に至ると一切の財産、人間関係を捨て密林へと入り、そこで「この人生とは何だったのか」「宇宙とは何か」について瞑想(めいそう)した▼生い茂ったパンヤン樹(ガジュマル?)のもと、身体をすりへらし骸骨さながらとなって行われるその瞑想は、誰からも認められず(認められる必要もなく)、その人は生命を了えるのである▼瞑想者が得た結論は普通「空」と言われ、それが何を意味するかはよく分からないのだが、その応用編として例えば記数法の位取りにおける0の発見などが挙げられる▼「今年は2014年だ」と言う時のこの百の位の0は、それがないと214年になりどうしても必要だが、まだ百年たっていないのだから0と書く以外ない。この百の位は無いのではなく「空」なのである。言ってみれば、まだ住人が入っていない空き部屋ということだが、空き部屋そのものはあるのである▼ところで現代のコンピューター計算は全て二進法の0と1で行われるが、その0こそはインドの大発見なのであり、現代の高度コンピューター社会で活躍しているインド出身者は極めて多い▼古代インドの瞑想は虚しかったどころか、0をはじめとしてとんでもない真理を発見していたかも知れない。(八重洋一郎)
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