梅雨入りも間近。平年ならGW後だが、ことしは早いとテレビが伝えている。薄黄色の福木の花がほろほろと散る頃だ▼屋敷囲いの福木と石垣、赤いらかの家々は、石垣の原風景である。石垣市史発刊の「八重山写真帖~20世紀のわだち~」をみれば、昭和の石垣がかくも緑深きまち、むらであったことがよく分かる▼特に、測候所のポールから撮影した市街地のパノラマ風景は圧巻。緑に抱かれた人々の暮らしが垣間見えて懐かしい。今なお、マフタネーにそのたたずまいが色濃く残る。末永く市民の誇りとし、残したい景観だ▼毎年襲来する台風への備え、万が一隣接の家が火事にあった際の防火の備えであり、次世代には建築用材として残された。いわば日々の暮らしを守るための先人の知恵であった▼伊達政宗によって開かれた杜の都・仙台。その源流は居久根(いぐね)と呼ばれた屋敷囲いの防風・防雪・防火林であったという。昭和20年7月の米軍戦略爆撃によって灰燼(かいじん)に帰したが、杜の再生を願い、昭和25年から45年にかけて主要街路にケヤキを植樹したのが、現在の美観につながる。昭和53年、さとう宗幸の「青葉城恋唄」が、その名を定着させた▼屋敷林は個人の資産だが、緑こそがまちの風格をつくる。それを思えば全体の共有資産と考えたい。(慶田盛伸)
↧