八重山の人口の約3割(当時)に当たる9313人が犠牲となった1771(明和8)年の明和大津波から244年目を迎えた24日午後、石垣市宮良タフナー原にある大津波遭難者慰霊の塔で市主催の慰霊祭が行われ、地域住民や防災関係者ら約200人が犠牲者の冥福を祈った。
慰霊祭は午後3時から行われ、宮良小6年の嘉良星南(せいな)さんと大浜中3年の常深欣也(きんや)君が児童生徒を代表して作文を読み上げた。
常深君は「大きな光となるように」と題した作文で「大津波から240年以上が経過した今も慰霊祭の式典が執り行われていることは災害に対する強い意識を持ち続けているという希望の光。この光が消えぬよう、そしてもっと大きな光となるよう皆さんと考えていきたい」と決意を新たにした。
石垣市老人趣味の会詩吟クラブ(前木テル子代表)のメンバーは、明和大津波の研究で知られる故・牧野清さんの「慰霊の塔に寄す」と題した詩吟を奉納した。
中山義隆市長は式辞で「防災は日ごろから油断することなく備えることが大切。歴史の教訓に学び、常に防災意識を持ち、災害への備えを怠ることなく、市民一人一人が力を合わせて取り組んでいかなければならない」と述べた。一般参列者の献花も行われた。
明和大津波は1771年4月24日午前8時ごろ、石垣島の東南沖約40㌔を震源地とするマグニチュード8クラスの地震が発生して起きた。石垣島の東海岸で最大30㍍、宮古島地方にも10㍍以上の津波が押し寄せ、犠牲者は宮古と八重山を合わせて約1万2000人に上ったとされる。